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「神にはどんなことでもおできになる~宮本神父の祈りから」

2012年04月02日

Posted by パスター菅野 at 07:19 Comments( 0 ) TrackBack( 0 ) 牧師のコラム
おはようございます。新しい年度、新しい週がスタートしました。最高にすばらしい時でありますように。今日は、祈りの確かさについて分かち合いたいと思います。

2009年2月に大阪教区の宮本勝美神父は病気で天に召されました。85歳でした。アウシュビッツ収容所において妻子ある囚人の身代わりとなってガス室で殉教の死を遂げたマキシアノ・コルベ神父と同じフランシスコ会でした。奇しくも同じ時期、宮本さんは日本で同じような身代わりの犠牲者になる体験をしたのです。

宮本さんは神学校で8年間の学びを終えて、神父として活動を始める直前に徴兵されました。海軍に召集され鹿児島で兵役について間もなく、上官の命令で彼の小隊から七名がフィリピンの激戦地へ送られることになりました。七名の選抜はくじ引きで行われました。

選ばれた中に大阪豊中のお寺の住職がいました。彼には奥さんと三人の子供がいました。任命を受けたその夜、同じ部屋で隣に寝ていた住職は非常に苦しんでいる様子でした。「宮本、オマエも選ばれた七人の中に入っているのか」。「いや、オレは入ってなかったよ」。「そうか、よかったな。オレは選ばれてしまったんだ。もしオレが戦地から帰ってこれなかったら、妻や子供たちはどうなるんだろうか。お寺はどうなってしまうんだろうか」。死を目前にして不安と恐れで、彼は肩を落としてうずくまってしまいました。

宮本さんはそれを聞いて住職に大変同情しました。しばらく神に祈ると、「あなたが身代わりになって行きなさい」という導きを受けました。すぐに決心して、住職に言いました。「じゃ、オレが代わってやろう」。「オマエには妻と子供がいる。オレにはいないからオマエに代わって船に乗るよ」。

翌日、宮本さんは小隊長に自分の決心を告げました。「宮本、バカなことを言うな!生きて帰れる保証はないんだぞ。お前、自分の言っていることが分っているのか!」。小隊長にガンガン怒鳴られましたが、宮本さんの決心は変わりませんでした。やむなく、小隊長はしぶしぶ認めてくれました。それを住職に伝えると、「済まないなぁ!」と、涙を流して喜んでくれました。

しかし、宮本さんはその夜から神に必死の祈りを捧げました。「主よ、ようやく神父として福音の伝道を始めようとした矢先の出陣です。どうか生きて帰れますように守ってください!」。それこそ扉をバンバン叩くように激しく祈りました。

宮本さんの乗せられた船は八千トンの貨物船です。船の中でも必死の祈りは続きました。船は戦地フィリピンへ向け出航しました。航海の途中で敵の戦艦が待ち伏せしているとの報せが入り、急遽、針路を台湾に向けて進んでいきました。しかし、貨物船は図体が大きく船足は遅いため、すぐに敵艦に見つかってしまい、猛攻撃を受けました。潜水艦の魚雷攻撃と飛行機の空爆で船は爆破し、数分でアッと間に撃沈。

ところが、船の爆破で気絶した宮本さんは爆風によって海上に吹き飛ばされました。気絶した人間は海底に沈みません。なんと彼は気絶したまま波間に浮かんで丸一日漂流しているところを米軍に発見されて、救助されました。捕虜として台湾に送られ、二年間の収容生活を終えて、終戦とともに日本に送還されたのです。

主は宮本神父の必死の祈りを聞いてくださいました。爆風で気絶させて海上に吹き飛ばし、気絶したまま海上を漂わせて敵軍に救助させる。神にはどんなことでもお出来になるのです!

帰還後、宮本神父はブラジルに渡り、大いに福音宣教の働きに従事したのでした。

みなさんの祈りにも神は必ず答えて下さいます。祈りつつ毎日を過ごして行きたいですね。


雨の日をどのようにすごされましたか?

2012年03月05日

Posted by パスター菅野 at 23:10 Comments( 0 ) TrackBack( 0 ) 牧師のコラム
ここ2~3日、全国的に雨が降っていますね。恵みの雨という言葉がありますが、もしかしたら、多くの人は不快で嫌なものかも知れません。

子供の頃、雨を楽しんでいたことをふと思い出します。こんな歌がありますね。

♪あめふり
作詞 北原白秋
作曲 中山晋平

(1)
あめあめ ふれふれ かあさんが
じゃのめで おむかい うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

(2)
かけましょ かばんを かあさんの
あとから ゆこゆこ かねがなる
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

(3)
あらあら あのこは ずぶぬれだ
やなぎの ねかたで ないている
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

(4)
かあさん ぼくのを かしましょか
きみきみ このかさ さしたまえ
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

(5)
ぼくなら いいんだ かあさんの
おおきな じゃのめに はいってく
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン


「ピッチピッチ チャップチャップ  ランランラン」というフレーズは、完全に楽しんでいますね。こういう子供の心を失いたくないなーと思います。


いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたに望んでおられることです。
(新約聖書 テサロニケの手紙 第一 5:16-18)


しかし、人生の中には、人からの冷たい言動という雨に降られることがあります。次の「中島みゆき」が歌った「家なき子」の主題歌にもなった曲は、実に、雨が、つらい、悲しい心情を表してくれます。

わたしに取って、「ここにいるよ」という歌詞は、イエス・キリストさまの言葉のようにを感じます。

世の中を生きていて、つらい、悲しい経験をする時に、「君が笑ってくれるなら 僕は悪にでもなる」とまで言ってくれる友達がいるとしたら、それだけでどれだけ心強いかと思います。実は、そんな友達を心のどこかで求めているのかも知れません、

イエス・キリストという方は、私のマイナスである、罪、悲しみ、呪い、死を身代わりに十字架で引き受けて死んで下さり、墓に葬られ、三日目によみがえって、今も生きて一緒にいて下さると信じています、そのことを信じているだけで、どんな苦しみををも乗り越えて行けそうな気がします。


♪空と君のあいだに
作詞 中島みゆき
作曲 中島みゆき
編曲 瀬尾一三

(1)
君が涙のときには 僕はポプラの枝になる
孤独な人につけこむようなことは言えなくて
君を泣かせたあいつの正体を 僕は知ってた
ひきとめた僕を 君は振りはらった 遠い夜
ここにいるよ 愛はまだ
ここにいるよ いつまでも

空と君とのあいだには 今日も冷たい雨が降る
君が笑ってくれるなら 僕は悪にでもなる
空と君とのあいだには 今日も冷たい雨が降る
君が笑ってくれるなら 僕は悪にでもなる


(2)
君の心がわかる、とたやすく誓える男に
なぜ女はついてゆくのだろう そして泣くのだろう
君がすさんだ瞳で強がるのが とても痛い
憎むことで いつまでもあいつに縛られないで
ここにいるよ 愛はまだ
ここにいるよ うつむかないで

空と君とのあいだには 今日も冷たい雨が降る
君が笑ってくれるなら 僕は悪にでもなる
空と君とのあいだには 今日も冷たい雨が降る
君が笑ってくれるなら 僕は悪にでもなる
空と君とのあいだには 今日も冷たい雨が降る
君が笑ってくれるなら 僕は悪にでもなる


次に、八代亜紀が歌った「雨の慕情」は、人の心の深い部分を歌っていますね。

「心が忘れた あのひとも  膝が重さを 覚えてる」という歌詞で、「忘れているはずの彼の想い出が、身体の一部が、覚えている。」実に深い、切ない思いを表しています。そのどうしようもない思いを雨に向かって祈っています。

さらに、「きらい 逢いたい きらい 逢いたい  くもり空なら いつも逢いたい」という歌詞の中に、深い傷を負いながらも、どうしようもないくらいに恋しく深い憎愛を感じます。

そんな深い思いも、「雨(あめ)」に祈るところから、「天(あめ)」に思いを向けて祈ることができたら・・・。

昔、いつも太陽に向かってお祈りをしていた人がいました。その人とは、私の曾祖母(ひいおばあちゃん)です。太陽を拝んでいましたが、太陽を造られた神がいることを知った時に、「天のお父さま」と、神に祈る人になりました。

私たちの心の中には、どうしようもない、切ない、やり切れない、感情が眠っていることでしょう。賢いスマートな人は、「そんな叶えられない思いはあきらめが肝心!」と引っ込めてしまうかも知れません。

しかし、こんな雨の日には、少ししっとりした気持ちになって、心の中に眠っている深い憎愛や怨念や懐かし思いに心をを向けて、その思いを感じながら、雨を造り、雨を降らして下さる方。天の父なる神さまに祈ってみられたらどうでしょうか?

私は今日一日、二回分の説教(講演)を準備しながら、心の深い部分に眠っている様々な感情と出会い、その気持ちを感じ、対話しながら時間を過ごしました。そして、その思いの中から神に祈っていました。

忘れかけていた色々な感情を思い起こす時に、心の痛みを感じたり、寂しさを感じましたが、しかし、神に祈る時に、その傷や痛みが宝であるかのように感じ、いつしか、心地よくなり、懐かしさにほほえみが湧いて来ました。

雨の日っていいなーと思いました。


♪雨の慕情
作詞 阿久 悠
作曲 浜 圭介
唄 八代 亜紀

(1)
心が忘れた あのひとも
膝が重さを 覚えてる
長い月日の 膝まくら
煙草プカリと ふかしてた
にくい 恋しい にくい 恋しい
めぐりめぐって 今は恋しい

★雨雨ふれふれ もっとふれ
私のいいひと つれて来い
雨雨ふれふれ もっとふれ
私のいいひと つれて来い★


(2)
ひとりで覚えた 手料理を
なぜか味見が させたくて
すきまだらけの テーブルを
皿でうずめて いる私
きらい 逢いたい きらい 逢いたい
くもり空なら いつも逢いたい

★2回繰り返す


雨の日、あなたはどんなことを考えながら過ごしていましたか?


マイナスはプラスに

2012年02月20日

Posted by パスター菅野 at 18:46 Comments( 0 ) TrackBack( 0 ) 牧師のコラム
私が、今務める新宿福興教会を始めたのは2001年9月です。アメリカの同時多発テロが起こった頃です。パソコンが一般の人たちに普及し始めていました。当時はほとんど興味がありませんでした。

毎週日曜日礼拝(集会)の時に、週報という集会のプログラムやニュースレターを毎週発行する必要がありましたが、パソコンはできないし、字があまりきれいではないので手書きで書くのも気が進まず困っていた時に、パソコンの高度な技術を独学で習得して活用している友人が、「菅野先生の教会の働きをぜひ手伝わせて下さい」と申し出てくれました。これは願ってもないことで、まずは毎週発行する週報を作ってもらいました。それから、看板、名刺、色々な印刷物などのありとあらゆるものを作ってくれました。ところが、しばらくして友人は仕事が忙しくなり、「申し訳ないけど、これからは手伝うことができなくなりました。すいません!」といきなり言われましたので、「ガーン!」。ショックで言葉が出ませんでした。

しかし、友人はそのまま突き放すのではなく、中古のパソコンをプレゼントしてくれて、今までの作業を自分でできるように丁寧に教えてくれました。その時からパソコンを始めました。当初は、キーボード入力は指一本で、ゆっくり時間をかけながらでしたが、毎週の週報の制作のほかに、説教(講演)の準備やメールのやり取りなど、たくさんの文字入力をしているうちに、気がついたら上達して行きました。

それから、2003年にはホームページを立ち上げ、礼拝(集会)の生放送をはじめ、チャット、ブログ、掲示板などを通して、たくさんの人と関わるようになりました。そして気がついたら、私もC世代の仲間入りをしていました。

友人が手伝ってくれたことで、パソコンを使って教会の何もかもをやるようになり、その友人が忙しくなったので、自分でパソコンを教えてもらってやるようになり、いつしかそれが楽しくなり、生活の一部となり、切っても切れないようになりました。だから、パソコンや持ち運びの端末なども、かっこ良さよりも実用性と機能性を第一に選びますが、デザインのかっこ良さやワクワクするような遊び心も大切だなーと感じます。生活の一部になりました。

もし友人が、ずーっと私の秘書のようになってくれていたとしたら、自分ではパソコンをいじらなかっただろうと思いますし、C世代の仲間入りはできていなかったと思います。

私に取ってのマイナスはプラスに変わりました。バイブルには、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:28)と書かれています。神を愛する者に取っては、すべてのこと、マイナスもプラスも全部のことが共に働いて益、プラス、良い結果になるとしたら、良いと思えることはもちろん感謝ですが、良いと思えないことに関しても、後に良いことに変えられるので感謝できることになりますね。この人生観は、根拠のない楽観主義ではなく、確かな人生観だと思います。この土台があるので、「全てのことを感謝」して生きていけるのだと思います。

今週も素敵な一週間でありますように心からお祈りしています。


自分の人生というステージで、与えられた役割を精一杯に

2011年11月11日

Posted by パスター菅野 at 09:08 Comments( 0 ) TrackBack( 0 ) 牧師のコラム
おはようございます。今日も一日よろしくお願いします。今朝は、子供たちがお世話になっている学校のPTA校外当番をして来ました。つまり、みどりのおじさんです。雨の中でしたが、元気な子供たちと心を通わすことができて、元気を一杯もらいました。それもそのはず、今日は学芸会第一弾(校内向け)の日です。明日は、父兄や来賓などを招いての校外向けですが、今朝も十分テンションはが上がっているようです。学芸会の最近の傾向は、主役中心ではなく、みんなが主役になれるように工夫がされているように思います。みんなが、ステージの上で、自分の役を精一杯演じるます。演じる側も見ている側も、感動と力を頂きます。私たちも、自分の人生というステージで、与えられた役割を精一杯させて頂けたら回りの人に感動を与え、自分自身には充実感を与えるものになることでしょう。バイブルに、「わたし自身をも使い尽くそう」(聖書・Ⅱコリント12:15)とありますが、今日は雨の一日になりそうですが、人生の晴れの日は「ハレルヤ!」ですが、人生の雨の日には「アーメン!」で、ひた向きに歩んで行きたいですね。素晴らしい一日でありますように\(^o^)/


【あなたは幸せになるために生まれた人】

2011年09月17日

Posted by パスター菅野 at 00:48 Comments( 0 ) TrackBack( 0 )
今、自分の生活、仕事、人間関係、家庭環境等について幸せであると感じているでしょうか? もし不幸を感じているとしても大丈夫、幸せになりたいと思っているなら、必ず幸せになれます。

私たちが今置かれている状況は、ほとんどの場合、偶然ではありません。私たちは、自尊心やセルフイメージに応じて、それにふさわしい人間関係や状況を引き寄せています。(これは、無意識の領域なので、意識していることとはかけ離れている場合もあります。)

... 健全な自尊心やセルフイメージを持っている人は、他人からの敬意や協力、友情を期待し、おおむねそういうものが得られるものですが、自尊心が乏しくセルフイメージの低い人は、居心地の悪い不快な状況にしばしば巻き込まれ、けなし合う人間関係に巻き込まれることも少なくありません。

ジーザスは、「あなたの信じた通り、あなたになる。」と語られましたが、健全な自尊心とは、神の目に映る自分と同じように、自分を信じ、尊敬し、愛することです。また、セルフイメージとは、自分に対してどう思うか?ということですが、神が私たちを好きであるように、自分を好きになることです。

ですから、幸せな人生を生きるためには、神の目に映る健全な自尊心と高いセルフイメージを持つことに意識を集中することが大切です。そうしたら、「私は幸せになっていい、」「幸せになるに値する、」「幸せになれる」と心から確信できるようになり、そうなったらもう簡単です。自然に幸せを引き寄せるようになります。

運命とは決して変えられないものではありません。運命とは、ジーザスが語られた通り、「あなたが信じた通りに」なるものです。それは、神があなたに願っておられることであり、あなたのために持っている計画でなのです。それは、あなたは幸せになるためにこの世に生まれて来たという事実です。

さあ、「私は幸せになるに値しない」という考えを捨て去って、幸せな毎日を一緒に歩んで参りましょう。あなたは幸せになるために、この世に誕生した人なのですから。God bless you! 

http://www.youtube.com/watch?v=M-tdyFRCusY




『日曜日「教会の牧師」、平日「出前牧師」』

2011年08月03日

Posted by パスター菅野 at 08:05 Comments( 0 ) TrackBack( 0 ) 牧師のコラム
私は、日曜日は教会で普通の牧師をしていますが、平日は出前牧師、つまり出張牧師をしています。『出前』という言葉を使っているのは、16歳からずっと、そば屋の出前、魚屋の出前、築地の市場の配達、お弁当屋の配達などの出前の仕事をして来て、多くの人が出前を求めていることを痛感して来ましたので、牧師になった今も、教会の建物の中で人が来るのを待っているだけではなく、牧師を必要としているところに出前したらどうだろうと思ったからです。

詳しくはこちらをどうぞ⇒(http://www.geocities.jp/sgr_ch/demae-bokushi.htm

出前牧師とは、(1)牧師個人の出前。病床お見舞いとお祈り、カウンセリング、人生相談、洗礼を授けたりします。(2)牧師の派遣出前。冠婚葬祭の司式や講演会や集会の講師等を行います。(3)教会の出前。駅前や繁華街等で路上ライブや街頭演説、路傍伝道をしたり、教会堂でない場所に礼拝の出前、祈祷会の出前、賛美集会の出前等をします。(4)インターネットを使って、動画配信、文書伝道、メールマガジンなどを通して牧師の出前をします。/もし、牧師を必要としていましたら気楽に声をかけて下さい。

今日は、茨城県北部の同和地域に礼拝の出前をしに行きます。通常、部落の中に教会を建てることは非常に困難です。しかし、一つの大きな平屋のご自宅を開放してくださり、私が出張することでそこが教会となるのです。そして、地域の何人かもそこに参加してくれることを期待しています。

出前を英語にすると『デリバリー(Delivery)』になります。また、スパゲティーのことをパスタと言い、牧師のことをパスターと言いますが、デリバリー・パスタというのはいかにもありそうですが、『出前牧師』は、別名『デリバリー・パスター』でもいいかなーとか思うこともあります。

イエスさまは、『来てみなさい』『私のもとに来なさい』と語られましたが、クリスチャンである私たちには、『全世界に出て行って、全ての造られた者に福音を宣べ伝えなさい』と言われました。必要とされているところに出て行って、入り込んで伝道することを聖書は教えていることなのです。みなさんがキリストのもとに行って救いを受けた人ならば、出て行って、共に福音の出前をしませんか? 今の日本に必要なのは、宗教ではなく、愛によるキリストの救いです。どんな人でも本物の愛はわかるはずです。イエスさまから頂いた愛を持ち、全てのことに愛を込めて今日も一日過ごせたらいいですね。



「愛してる」「I love you. 」「我愛你」「나는 당신을 사랑하고 있다 」

2011年05月17日

Posted by パスター菅野 at 01:25 Comments( 0 ) TrackBack( 0 ) 牧師のコラム

私が仮に、ものすごく立派な牧師で、立派な説教をして、すばらしい働きをしているとします。

あるいは、有能な首相となって、すばらしいリーダーシップを発揮して、国民の支持を得ているとします。

あるいは、億万長者となって、ほしいものは何でも買えるし、何不自由しない生活をしているとします。

しかし、自分の妻を愛してなかったら、愛されていない妻は、うれしくないと思います。

でも、仮に、私に何もなくても、妻を真心から愛していたら、妻はうれしいと思います。

神様との関係において、仮に私が、真面目で、立派で、非の打ち所のないクリスチャンであるけれど、神様を愛していなかったとしたら、神様はうれしくないと思います。

しかし、欠けだらけで、足りないところはたくさんあっても、真心から神様を愛し、神様に献身し、仕えているならば、神様は喜んでくれると思います。

世界一、神様を愛し、妻を愛し、日本を愛する人になりたいと思う今日この頃です。



素敵な一日でありますようにお祈りします。

2011年04月16日

Posted by パスター菅野 at 13:39 Comments( 0 ) TrackBack( 0 ) 聖書メッセージ
おはようございます。今日も素敵な一日でありますようにお祈りします。
「この日は主が造られた」(詩篇118:24)

早上好。今天也极好的是为使一日祈愿。
「这天主人被制作」(诗篇118:24)
...
Good morning. It prays in a wonderful day it today.
"The main was made on this day. (Psalms 118:24).

안녕하십니까? 오늘도 멋있는 하루이기를 기도합니다.
「이날은 주인이 만들어졌다」 (시편118:24)


「現在を生きる」

2011年03月27日

Posted by パスター菅野 at 12:51 Comments( 0 ) TrackBack( 0 ) 牧師のコラム
「あしながおじさん」を書いたアメリカの女流作家ウェブスター(1876~1916)は、『幸福になるほんとうの秘けつ。それは、現在に生きること。いつまでも、過去のことを悔やんだり、未来を思いわずらったりしないで、今、この瞬間から、最大限度の喜びをさがすこと。』と言いました。

これは、私たちがほんとうに幸福になるための秘けつだろうと思います。私たちは、決して過去や未来には生きることは出来ません。いつも現在にしか生きることは出来ません。それなのに、過去のことを悔やんだり、未来を思いわずらったりしていたら、何ともったいないことでしょうか。
...
過ぎ去った過去を悔やんだところで、取り返しがつくならばいくらでも悔やんだらいいでしょう。しかし、「覆水盆に帰らず」とことわざにもあるように、過去は変えることは出来ません。そうであるならば、そのことをそのまま受け入れたらいいのです。私たちは、過去をいつまでも悔やんでいるよりも、それを直視し、受け入れた方がよっぽど反省にもなりますから、その失敗を繰り返すことがなくなりますし、現在を台無しにしてしまうことはありません。

また、まだやって来ていない未来を思いわずらったからといって、橋は橋のたもとまで来てから渡るものであるのと同じように、未来への思いわずらいが現在を生きる力を奪ってしまったら、生きることがつらくなり、人生に疲れ果て、幸福を感じることが出来なくなります。私たちは、未来に対する備えは必要ですが、まだやって来ていないことを思いわずらうことはやめにしたいものです。

そして、現在にだけ心を集中させて生きて行きたいものです。そうすることで、今、この瞬間を最大限に生きることになり、ほんとうの幸福を見つけることが出来るはずです。3ある力を、過去・現在・未来に1づつ振り分けるより、生きれることが出来る現在に3を投入して生きれたら、それは完全燃焼です。それは、ストレスも溜まらないだろうし、精神的な病もいやされるだろうし、人生が何倍にも効率的になるだろうし、幸福を味わえるようになります。そんな歩みを共にさせて頂きたいですね。祝福がありますように。


「涙の数だけ強くなれる」

2011年03月22日

Posted by パスター菅野 at 15:26 Comments( 0 ) TrackBack( 0 )
私は、1997年に結婚をしました。その結婚披露宴の最後に、♪涙の数だけ強くなれるよ アスファルトに咲く 花のように 見るものすべてに おびえないで 明日は来るよ 君のために♪という曲をかけてもらいましたが、本当にそうだなーと感じます。

私は今までに、人からの裏切りや人の心の冷たさ、無関心さ、意地悪に出会って来たように思います。しかしある人は、そのことが赦せないで、他の人にし返す場合もあります。しかし私はそれをすることが出来なくなりました。

それは、「こういうことをされたら、こんなにつらく悲しんだ。こんなに嫌な思いをするんだ。」と身にしみて感じたからです。そして、「人に優しくなりたい。」「人を喜ばせて、笑顔を見たい。」と思うようになりました。

あなたが今日、つらく悲しい経験をしているならば、それはあなたが優しくなるための貴重な経験であると知って下さい。つらく悲しい思いをするからこそ、苦しみ悲しむ人の気持がわかるようになりますし、共感して、言葉をかけなくてもその人と一緒にいて友となってあげることが出来ます。

そうしたら、悲しみや問題は宝であり、ダイヤモンドのように輝くようになります。私たちは、ダイヤモンドのような存在です。しかし、最初は原石のままです。ところが、つらい涙の経験をすることで、その原石がけずられ、光り輝く宝石となります。

その宝石の輝きは、あなたの強さであり、あなたの優しさであり、悲しむ人と一緒に悲しみ、喜ぶ人と一緒に喜ぶ涙であると思います。

あなたは素敵な人です。そして、強く優しい人です。そんなあなたと出会えた私は幸せです。いつもありがとうございます。

God bless you!



「バランス感覚が大切」

2011年03月18日

Posted by パスター菅野 at 12:26 Comments( 0 ) TrackBack( 0 ) 牧師のコラム
神は聖書の中に「恐れるな」という言葉を366回記しました。それは、閏年も含めて、毎日私たちに「恐れるな」「私が一緒だから恐れなくても大丈夫だよ」と語って下さいます。東東北太平洋沖大震災や福島の原発事故などのため悲観的になってしまう人に神は「恐れるな」と語られます。

しかし、こんな時に時々いるタイプの人が、根拠のない楽観的な人です。「東京は、大阪は、九州は大丈夫。津波も来ないし、被害もない。」と言い切ってしまう人が居ます。そんな人に対して神は、「目を覚まして祈りなさい」「神に会う備えをしなさい」「自分のことだけではなく、人のことも考えなさい」と語られると思います。

神は私たちに、バランスの取れた人になってほしいと願われています。そのままの姿で、あるがままで愛され、受け入れられていますが、同時に、成長することを期待されています。そのモデルであり、ゴールは、イエス・キリストの姿です。「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられる」(聖書)とあります。

私たちの希望は、イエス・キリストの姿に変えられることにあります。みなさん、想像してみてください。あの愛に満ちた、完全なキリストの姿に私たちも変えられるのです。そこに希望があるのではないでしょうか。こんな時こそ、希望を失わないで歩んでいきたいものです。


がんばれ、日本。がんばれ、東北

2011年03月16日

Posted by パスター菅野 at 21:42 Comments( 0 ) TrackBack( 0 ) 牧師のコラム
イギリスのインデペンデント紙の一面に、大きく日本語で「がんばれ、日本。がんばれ、東北」と掲載された。


社説では、「日本、みなさんは一人じゃない」「日本は復活する」と記されました。

...
「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」
(マタイによる福音書 28章20節)


かつて日本は、軍事大国至上主義から経済大国至上主義によみがえったように、経済大国至上主義から新しい日本に復活すると信じます。


「わたしはよみがえりであり、命である」
(ヨハネによる福音書 11章25節-26節)  


「夢を壊す人を避けるのも知恵」

2011年03月15日

Posted by パスター菅野 at 12:26 Comments( 2 ) TrackBack( 0 ) 牧師のコラム
自分の夢を追い求めたり、何か新しく冒険をしようとすると、家族や友人から『リスクを侵さない方がいい!』と善意の助言をしてくれることがあります。

そして、『あなたにはそれは無理です!』と締めくくります。彼らは、善意だけど、実は夢を壊している人なのです。

自分の「出来ない!」という思い込みに縛られて、夢を実現させようとするあなたの気持をくじこうとします。出来ることなら、そういう人たちを避けるのも知恵です。

しかし、その資格のある人や師からも助言を求めないということではありません。ただ、「出来ない!」と思い込んでいる人や、行動をしないタイプの人がまき散らすネガティブな病原菌を避けることです。

そういう人たちは、相手が傷ついたり、失敗したりしないようにと、親切心から言っているのですが、結局、相手の自尊心を損なわせ、成功の可能性を奪ってしまいます。

だから、自分の夢を打ち明ける人は選んだ方がいいです。そして特に、初期の段階には、夢を壊す人には要注意です。

また、断固拒否しなければならない人は、親切心ではなく、わざと相手の気持ちを挫こうとする人たちです。その人は、誰かの成功によって、自分の惨めな境遇を嫌が応でも直視しなければならないことを恐れています。

とにかく、そのような助言によって、あなたのやる気が失われ、夢が壊されてしまわないようにしましょう。

若い頃は、万能観に満ちていますので、そのような助言を聞いても気にしないばかりか、益々情熱を持って、夢に向かえますが、年を取るにつれて。否定的な助言は、説得力を感じ、恐れを生じさせ、やる気を失わせます。

善意であっても、悪意であっても、夢を壊す人たちを避けるのも知恵の一つなのです。アメリカの牧師であり、成功者でもあるロバート・シューラー牧師は、「否定的な人とは付き合わない方がいい!」とまで言います。

類は友を呼びます。あなたが夢とは関係なく、傷を舐め合って生きていきたいならば別ですが、より良い人生を願っているならば、同じ、前向き肯定的な人と付き合って行く方がいいのではないでしょうか。

神があなたに与えられた可能性を開花させられることができますように。



天のお父さんからのラブレター ~ Father's Love Letter

2011年03月15日

Posted by パスター菅野 at 07:24 Comments( 0 ) TrackBack( 0 ) 牧師のコラム
天のお父さんからのラブレター ~ Father's Love Letter
「天のお父さんからのラブレター」
Copy Right Father’s Communication Barry Adams
http://www.fathersloveletter.com/

...

聖書の中に父なる神の愛がたくさん記されています。これは父からのラブレターです。この言葉は真実であり、あなたが心に受けるならあなたの人生は変わるでしょう。このラブレターは神様の心です。神様はあなたを愛してます。神様はあなたの父であり、これはの天の父なる神からあなたへのラブレターです。



あなたが私を知らなくても、私はあなたのすべてを知っています。詩篇139:1

あなたの髪の毛の数さえ知っているのです。マタイ10:29-31

あなたを私のイメージに創りました。創世記1:27

あなたが母の胎に宿る前からわたしはあなたを知っています。エレミヤ1:4-5

私は創造の前からあなたを選んでいました。エペソ1:11-12

私はあなたを母の胎の中で創ったのです。詩篇139:13

あなたは間違って造られたのではありません。詩篇139:15-16

私があなたの生まれた時と生きる場所も決めたのです。使徒の働き17:26

なぜなら私は永遠の愛であなたを愛しているからです。エレミヤ31:3

私を知らない人々は私を誤って伝えてきました。ヨハネの福音書8:41-44

私はあなたから遠く離れていません、怒ってもいません。あなたを本当に愛しています。1ヨハネ4:16

私はあなたにあふれるばかりの愛をあなたに注ぎたいのです。1ヨハネ3:1

すべての良きものは私の手から来るからです。ヤコブ1:17

私はあなたの肉の父よりも、もっと多くのものを与えます。マタイ7:11

私は完全な父だからです。マタイ5:48

私はあなたのすべての必要に答えます。すべてを与える父だからです。マタイの福音書6:31-33

私によるあなたへの将来の計画はいつも希望で満ちています。エレミヤ29:11

私のあなたへの思いは数え切れないほどです。まるで浜辺の砂のようです。詩篇139:17-18

私は高らかに歌ってあなたを喜んでいます。ゼパニヤ3:17

私はあなたに良いことをするのを決してやめません。エレミヤ31:40

あなたは私の宝なのです。出エジプト記19:5

私を喜びなさい!私はあなたの願いをかなえてあげます。詩篇37:4

この願いを与えたのは私だからです。ピリピ2:13

あなたが今までに考えてきたことよりずっと私は大きな事ができるからです。エペソ3:20

私はあなたに最高の励ましを与える父だからです。2テサロニケ2:16-17

私はあなたの困難なときになぐさめをあたえる父です。2コリント1:3-4

あなたの心が痛むとき、私はそばにいるのです。詩篇34:18

私は羊飼いのように、あなたを引き寄せ、ふところに抱きます。イザヤ40:11

その日、私はあなたの目の涙をすっかりぬぐいさります。黙示録21:3-4

なぜなら私はイエスを愛したようにあなたを愛しているからです。ヨハネの福音書17:23

イエスを通して私の愛をあらわします。ヨハネの福音書17:26

イエスは私の完全な現われです。ヘブル書1:3

私はあなたの味方なので、だれもあなたに敵対することはできません。ローマ8:31

私はあなたの罪を数えません。2コリント5:18-19

イエスの死によってあなたと私は和解しました。2コリント5:18-19

イエスの死は私の愛の究極の表現です。1ヨハネ4:10

私はあなたに全てのものを惜しまずに与えます。ローマ8:32

もしあなたが私の子のイエスを受け入れるなら、私を受け入れることになるのです。1ヨハネ2:23

私の愛からあなたを引き離すものは何もありません。ローマ8:38-39

帰ってきなさい、最高のパーティーを開きましょう!ルカの福音書15:7

私はずっとあなたの父親だった。そして、これからもずっと父親です。エペソ3:14-15

私の質問は、私の子供になってくれるかい?ヨハネ1:12-13

私はあなたを待ってます。ルカ15:11-32




私たちに今できること

2011年03月14日

Posted by パスター菅野 at 13:00 Comments( 0 ) TrackBack( 0 ) 牧師のコラム
私たちは、東日本の大地震の被災地の方々に対して今できることがあったならば最大限のことをさせて頂きたいと思います。

しかし、このような機会に、義援金を募集し、その義援金の一部もしくは全部を自分の懐にいれてしまう個人や業者があるものかも知れません。

みなさんの親しい方々、教会、法人格を持った支援団体などを通しての義援金送付をされることが一番いいと思います。
...
私たちに今できること
1,祈り
2,マンパワーによるボランティア活動(受け入れ態勢が整ってから)
3,義援金や支援物資の送付
4,神の愛の実践と伝道



他人の思い通りになる必要はない

2011年03月07日

Posted by パスター菅野 at 23:15 Comments( 0 ) TrackBack( 0 )
他人の行動に、不当な期待を抱く人がいるものです。こういう人は、自分がしてほしいと思っていることをしてもらえないと、自分の気持ちが傷つけられたと相手に伝えます。

例えば、『あなたには思いやりがない。』とか、『気配りが足りない。』とか、『わざと不親切なことをした。』と言って相手を責めるのです。

こういう態度を取る人は、自分のやり方に相手が従ってくれないと、これらのセリフを使うことで、精神的に優位に立って、相手に罰を加えられることを知っています。自分が犠牲者である振りをして、相手を犠牲者に仕立て上げる戦術です。

その目的は、相手を不安にさせて、優先順位を変えさせ、自分の言いなりにすることです。もし相手が恥じ入って謝罪すれば、自分が勝ち、相手を手なずけることが出来ます。

しかし、この世の中に、自分の思うように相手が行動することを期待する権利を持っている人は誰も存在しません。もちろん、相手の同意を得ている場合や、親が子に対してするように、行動を管理する資格なら別の話しです。

私たちは、礼儀正しく、さわやかな態度を持って、相手を尊敬する心を心がけていればいいのです。自分のしたいことを犠牲にしてまで、他人を喜ばせる必要はありません。あなたはあなたの意思で、自分のしたいことを決める自由と権利が与えられているのです。

祝福を祈ります。God bless you!



「夢を実現するために」

2011年02月27日

Posted by パスター菅野 at 21:34 Comments( 0 ) TrackBack( 0 ) 牧師のコラム
将来のために綿密に計画を立て、実現しなくてがっかりした経験はないでしょうか?



そういう経験をすることは、私を含めて何度もあるだろうと思いますが、そこには、何かが欠けていたのかも知れません。



まず、明確な目標を立てて、それに向かっての計画を立てますが、そこで、『そうなったらいいなー』という願望を持っているだけではなかなかそこから進みません。願望を現実にさせるためには、願望以上のものが必要です。



それは、その実現を信じ続け、祈り続けることが必要です。そして、具体的に行動をして行くことが必要です。



①まず、信じるとは選択です。その夢の実現を信じることも信じないことも選択です。どうぞ、信じる方を選んで下さい。



②また、その夢の実現が確信(実感)となるまで、繰り返し祈ることが必要です。この祈りには、美辞麗句を用いる必要はありません。桐が一点に力を入れて穴を開けるように、その目標の実現のために繰り返し祈って下さい。



ルカ18章の聖書の箇所には、やもめの女が不正な裁判官に、『私の相手をさばいて、私を守って下さい。』といワンフレーズの願いを繰り返しました。来る日も来る日もそれだけを訴えました。不正な裁判官は、あんまりうるさいので、仕方なしにその願いを聞き入れました。イエス様は、この話をしながら、まして神は、あなたがたの祈りを聞いて下さると結論付けました。繰り返し、あなたの夢の実現を祈ってみて下さい。やがてそれが実感となるはずです。そうなったら、夢の実現も目前です。



③その時、神様に信頼しながら、一歩踏み出し、行動に移して下さい。やはり、大胆に行動に踏み出すことが最終的に大切です。夢を実現させるためには、棚から牡丹餅が落ちてくるのを待っていてはダメです。断固として行動に移して下さい。



私には夢があります。そして、この夢のためには命を捨てても惜しくはありません。それは、この日本や世界の人たちが、神の愛を知って、救われ、幸せになって下さることです。



私はこの夢の実現のために、毎日毎日、信じ続け、また、祈り続け、そして、行動をします。この夢が実現するのが難しいと感じる現実にぶつかることも多くありますし、『それは無理だ。』と言う人もいますし、私自身もそう思いそうになります。



しかし、夢は信じ続けなければいけません。また、祈り続けなければいけません。そして、行動し続けなければいけません。そうしることで、確実に夢は現実になって行きます。



夢を信じ、夢の実現を祈り、そして、行動し続けて参りましょう。あなたの夢の実現を祈ります。God bless you!




「うさぎとかめに見る『オンリー1』と『ナンバー1』」

2011年02月24日

Posted by パスター菅野 at 00:23 Comments( 0 ) TrackBack( 0 ) 牧師のコラム
童話のうさぎとかめという話は、二つの人生観を現していると思います。一つは「ナンバー1志向」で、もう一つは「オンリー1志向」です。



まず「ナンバー1志向」を持って生きているのがうさぎです。うさぎの目標は、とにかく「ナンバー1」になることにありました。この場合は、かめに勝つということです。ですから、自分が勝つことを確信したうさぎは、途中で昼寝をしてしまいました。



ところが、「オンリー1志向」を持って生きているのがかめです。かめの目標は、理性的に考えたらうさぎに勝てっこありません。しかし、「オンリー1」であることを目指しました。とにかく自分の力のベストを尽くしました。



この勝負は、「オンリー1」を目指したかめに軍配が上がりました。私たちの人生も、二つの人生観があると思いますが、とにかく負けず嫌いの「ナンバー1指向」は悪くはありませんし、必要ではありますが、そこだけに目標を持つならば、うさぎのような結果を招くようになるでしょう。



私たちは、他の誰かと勝負して勝つことも重要な場合もあります。しかし、同時に持たなくてはいけないのが、自分との勝負をして、自分のベストを尽くすことです。つまり、「オンリー1志向」です。



かめにとっては、陸上は自分のテリトリーではありませんでした。これが反対に、水中ということになったら、うさぎのテリトリーではありません。しかし、そこで『自分が得意とする場所ではないのでやる気はない』とは言わないで、自分のベストを尽くしました。



今の時代、このかめのような生き方、「オンリー1志向」が必要とされていると思います。しかし同時に、「ナンバー1志向」は持たないでいいということはありません。スケートの荒川選手の金メダルはやはり素晴らしいです。しかし、それが自分のベストを尽くした結果であったということなので、何倍にも素晴らしいと思います。



私たちも、「ナンバー1」であることを意識しつつも、大切なことは、いつでも自分のベストを尽くして行くことです。いつでも自分を磨き、向上しようとする心を持つことです。その結果として、それがナンバー2であったとしても、それは、自分のベストを尽くしたのですから、ナンバー1なのです。



必ずしも、「ナンバー1 イズ ナンバー1」ではなく、「オンリー1 イズ ナンバー1」と言えるだろうと思います。うさぎとかめのかめからそんな生き方を学んで行きたいものです。よい一週間でありますように。





聖書の言葉

2011年02月16日

Posted by パスター菅野 at 17:55 Comments( 0 ) TrackBack( 0 ) 聖書メッセージ
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(聖書)






幸せな結婚

2011年02月13日

Posted by パスター菅野 at 21:23 Comments( 0 ) TrackBack( 0 ) 牧師のコラム
今の世の中には、結婚が出来てもしない人、結婚がしたくても出来ない人に満ちています。

30代になって結婚出来ない独身女性を「負け組」という呼び方をすると聞いたことがありますが、しかしもしかしたら、結婚をして、家庭や子育てにしばられている女性よりも、独身で仕事をし、伸び伸びと生活をしている女性の方が幸せかも知れません。幸せかどうかは、その人自身が決めることであり、感じることだと思います。しかし願わくは、結婚をし、幸せな家庭を築くことが出来たら素晴らしいと思います。

まず、幸せな結婚のためには、やはりお互いが健康であることは大切ですが、障害を持った人同士の麗しい家族を知っています。

年齢の問題があったりもしますが、アメリカなどでは、90歳近くになって再婚をする人もあります。ですから、年齢も究極的にはあまり関係ありません。

誠実であるとか、親離れし、精神的に自立していることも重要な要素です。

しかし、幸せな結婚のためには、自分のことよりも相手を思いやれる人であることが大切です。相手のあるがままを包み、許し、受け止められることです。夫婦は、生まれた環境も育った環境も違います。また、男と女の違いがあります。ですから、価値観が違って当然なのです。結婚をしたことがない人は、自分は大丈夫だと思うものだろうと思いますが、これはとてもやりがいのあることです。

しかし、相手を自分のことのように考え、思いやることが出来るためには、ここに一つの薬があります。それは、自分自身をそのままで受け入れることです。それは、自分自身を好きになり、高いセルフイメージを持つことです。それが備わっている人は、どんな人でも受け入れることが出来ます。つまり、自分を受け入れている分量と他者を受け入れられる分量はイコールで結ばれるのです。人を受け入れることが難しい人は、自分を受け入れていないという事実にまず気づくことが必要です。また、両親や片親をありのままで受け入れられない人は、間違いなく自分を受け入れられていません。

そこには、心の中に禁止令が存在するかも知れません。「こうあるべき!」「こうであってはいけない!」というようにあなたのあり方を禁止する命令です。「存在してはいけない!」「お前であるな!」「近寄るな!」「属するな!」「成長するな!」「子供であるな!」こういったものを両親や養育者から聞かされ続けたら、自分を受け入れることは難しいです。自分を受け入れるためにはどうしたらいいでしょうか? 

その鍵は、神を受け入れることです。神はあなたの中にある禁止令に対して、許可令を与えて下さいます。「存在しなさい。」「お前であってほしい。」「近寄っていい。」「属していい。」「成長しなさい。」「子供であっていい。」と神は語って下さいます。神は愛であると聖書は語ります。愛とは、自分のすべてを見せても、なおも変らず愛し受け入れて下さることです。

人にはこの愛はありません。会社に行けば、仕事がよく出来て、失敗が少なく、一生懸命な人が好かれます。そこには条件があります。また、学校では、成績のよい人や素直な人が好かれます。ここにも条件があります。また、家に帰っても、親のいうことをよく聞き、成績がよい子がかわいがられます。どうじても、人間の中には条件付の愛しかないのです。しかし、神の愛は無条件です。すべての過去を見せても、そのまましっかりと受け止めて下さいますし、愛して下さいます。この神の愛に出会った人だけが、あるがままの自分自身を受け入れ、他者を受け入れることが出来るのです。

そのようにして、幸せな結婚生活を送る事が出来るのです。しかし、今日の文章は、幸せな結婚という枠に限らず、これはどんな人間関係にも当てはめることが出来るはずです。

幸せな結婚というテーマにしたのは、独身の人には、よい結婚をしてもらいたいですし、既婚者には、より幸せな家庭を築き上げて行ってほしいからです。そのためには、相手のあるがままを許し、受け入れることですが、それは出来るようで難しいことです。その秘訣は、自分を受け入れることであり、そして、その自分を受け入れる秘訣は、自分のありのままを愛して下さる神を受け入れることです。

この神の愛が、幸せな結婚、幸せな人間関係を築いてくれるはずです。どうぞ、この神の愛に出会って下さい。あなたは愛されるために生まれた人です。そして、愛するために生まれた人です。幸せな結婚と人生をお祈りします。God bless you!



自分の役割を自覚して生きる

2011年02月05日

Posted by パスター菅野 at 00:46 Comments( 0 ) TrackBack( 0 ) 牧師のコラム
「星の王子様」を書いたフランスの小説家であるサン・テグジュペリ(1900-1944)が残した言葉に、『いかにささやかなものであれ、自分の役割を自覚することが出来たとき、我々ははじめて幸福になれる。』というものがあります。

(他にも、『砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからなんだよ。』何ていう素敵な言葉も残しましたが、すごい人生の悟りだなーと思います。)

自分の役割を、体の各肢体で考えてみたらどうでしょう? 例えば、自分は口であるという役割を自覚したら、口の働きをするならば幸福を感じることが出来ると思います。また、足の裏であると自覚したら、足の裏の働きをすることで幸福感を味わうことが出来ます。これを客観的に見たら、足の裏は重たい体に踏みつけられています。また、足の裏がほめられることなどまずないでしょう。(足裏マッサージ師に「きれいな足の裏ですね」とほめてもらえるかも知れませんが)しかし、足の裏は一言も文句を言わないで歩いてくれます。

聖書では、教会のことを教会堂(教会の建物)であるとは教えません。ギリシャ語で「エクレシア」という言葉ですが、人の集まりの事です。そして、教会はキリストの体であると教えます。体に譬えると、頭がキリストで、信者はそれぞれの各肢体ということになります。これは先ほどお話ししましたが、一人一人が各部分です。

そして、体を考える時に、「どの部分が一番偉いか?」何て考える人はいないだろうと思います。そうです。体の器官には優劣はありません。同じように、ある人はいい大学を出たかも知れませんし、すごい肩書きがあるかも知れません。また、有能な人かもしれませんし、容姿が美しいかも知れません。しかし、だから偉いということを言えるでしょうか? 肌の色が違っても、国籍が違っても、そこにあるのは優劣ではなく違いだけです。同じように、私たちの役割は、違いはあっても、一切の優劣はないのです。

世の中の価値観では、肉体労働よりも知的労働の方が上であると考えられやすいと思います。また、キャリアと呼ばれるような人たちが優れていると考えられます。それぞれの働きには優劣はなく、違いだけがあります。そして役割とは、先ほど体で譬えましたが、いかなる部分であったとしても、自分の役割を自覚し、その役割を生きれたら幸せになると思います。

私が牧師をしないで、政治家や医者になったとしても、名声はあったとしても、それは自分の本当の役割ではありませんので、何か充実感ややりがいがなくて、「いつか辞めたい」という幸せじゃない毎日を過ごしたかも知れません。

牧師の働きとは、否定されることの連続です。世界のクリスチャン人口は20億人いますが、日本では多く見積もっても100万人であると言われています。実に1%弱です。100人にイエス様を伝えても、単純計算で99人が「No!」という計算です。そして、今のような宗教アレルギーがある時代には、牧師が胡散臭い宗教家であると思われることもあるでしょう。しかし、にも関わらず、私の人生は充実していますし、実に幸福です。それは、足の裏が、はた目にはかわいそうに見えても、足の裏にとってはその役割に徹することが幸せなように、私は最高に幸せです。

みなさん、あなたの役割は何であるか知っていますか? 自覚されているでしょうか? もしそれに気付いていないならば、手が自分は足だと思って逆立ちして歩いているようなものかも知れません。それは疲れることですし、自然なことではありません。

どうぞ、自分の役割を発見することが出来るようにとお祈りしています。そして、発見出来たならば、それに生きて下さい。役割の探し方は難しくありません。好きで楽しく出来て、得意なことということの中にヒントが隠されていると思います。役割を自覚し、それに生きれたら間違いなく幸せになります。そんな人生を歩みたいですね。



「互いにではなく、ただ愛しなさい」

2011年01月31日

Posted by パスター菅野 at 17:07 Comments( 2 ) TrackBack( 0 ) 牧師のコラム
「愛は惜しみなく奪うものである」という言葉を聞いた事がありますが、なるほどなーと思わされましたが、少し背筋が寒くなりました。

聖書は、『愛しなさい。』という一言で要約できます。しかしイエス様は、『私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。』と言われました。

この言葉を聞いたある人は、「聖書にこう書いてあるのだから、私をもっと愛してよー。」と反応しました。しかし、確かに互いにという言葉が付いていますが、これは、それぞれの人に対して、「ただ愛しなさい。」と語られたのです。

しかしながら、この『愛しなさい。』は愛せるということが前提ではなく、愛せないということが前提で書かれています。イエス様は、『あなたの敵を愛しなさい。』と言われました。敵を愛せる人がいるでしょうか? 敵を愛したら、その人はもう敵ではないのです。

『愛しなさい。』と言われても、出来ないということが前提ですが、だからと言って、『私を愛して。』と愛を要求したら、その要求が強い分だけ不幸になります。それは、まず願う愛を満たしてくれる人はいないからです。

この『愛しなさい。』とは、三つのことを教えます。第一には、私たちは、愛のない罪人であるということ。第二には、愛は神にしかないこと。第三には、神によってのみ愛せるようになるということです。それは、祈りということです。自分の中に愛がないと思うからこそ、「愛を下さい」と祈るようになるものです。そして、愛せるようになったら、その人の人生は必ず幸せになります。人を愛して不幸だという人を見たことがあるでしょうか?

まず、あなたがクリスチャンであるならば、毎週教会に行って礼拝をささげますが、礼拝の中での愛の実践は、牧師の説教を聞いて、笑顔でほほえみ、うなずきながら聞いて下さい。それが愛の実践です。

また、この文章を読んで下さったみなさんに取っての愛の実践は、それに対して笑顔で肯定的な思いで受け止めることです。そうしたら、この文章を書いた私もうれしいですし、誰よりもそういう思いを持てたあなたがうれしくなるはずです。愛したら、その人が幸せになれるからです。

そして、出会うすべての人に、自分に取って一番大切な人であるように接して下さい。「愛」と「ありがとう」を表現して見て下さい。そうしたら、あなたは必ず幸せな気分になれるはずです。

聖書が『愛しなさい。』と語るのは、神がみなさん一人一人に幸せになってもらいたからなのです。

試しに、誹謗中傷やうわさ話をして見て下さい。すぐに気分が悪くなるはずです。しかし、愛は、そのようなことをやめることです。そして、相手のいい面を見てほめることであり、相手のマイナスな面を見て許すことであり、相手のすべてを受け止めることです。

しかし、繰り返しますが、私たちには愛はありません。ですから、愛を祈り求め、神から愛を頂いて、その愛で愛をはじめて下さい。イエス様はあなたを愛しています。ただ愛して参りましょう。祝福を祈ります。God bless you!




きよしこの夜

2010年12月12日

Posted by パスター菅野 at 21:26 Comments( 0 ) TrackBack( 0 ) 牧師のコラム
1818年のことでした。いよいよクリスマスというある日の午後、オーストリアのオーベルドルフという小さな村の教会で、一つのハプニングが起こりました。

村の学校の校長先生はグルーバーという人でしたが、この先生は教会のオルガン奏者でした。大事なクリスマスの礼拝のため、練習しておこうと、教会のオルガンの前に座り、ペダルを踏みましたが、さっぱり音が出ません。先生はまっさおになりました。調べてみると、ねずみが空気ぶくろに穴をあけたことがわかりました。すぐに修理など、とてもできる状態ではありません。先生は生きた心地がしませんでした。たいへんなことになりました。

そこに、牧師のヨセフ・モーア先生がやってきました。「グルーバー先生。オルガンがだめなら、ギターがあります。これは私がつくった詩ですが、先生、ギターで歌えるように、曲をつけてください。」

きよしこの夜 星はひかり
救いの御子は まぶねの中に
ねむりたもう いとやすく

きよしこの夜 み告げうけし
まきびとたちは 御子の御前に
ぬかずきぬ かしこみて

きよしこの夜 御子の笑みに
めぐみのみ代の あしたのひかり
かがやけり ほがらかに

その詩は、前日、モーア牧師が、赤ちゃんの生まれた山小屋の家族を見舞ったあと、雪明りの中を下山したとき、あまりの静けさと、聖らかな美しさに深く感動して描いたものでした。

詩を読んでいくうちに、グルーバー先生の心に、熱いものがこみあげてきました。イエス様がお生まれになった夜は、きっとこの詩のとおりだったにちがいありません...。

こおりついた雪を踏みしめ、教会に集まった村の人たちは、生まれてはじめて、オルガンなしの礼拝を経験しました。ところが、ギターとともに聖歌隊が歌うこの讃美歌の、シンプルな美しさに深く感動しました。こうして、ジレルタルの谷間に流れた「きよしこの夜」の歌は、歌いつがれて、ついに全世界をつつんでしまったのでした。

もしも、オルガンがこわれなかったら、この讃美歌は世に現れなかったでしょう。ですから、現実に起こるどんな問題やハプニングにも負けることなく歩んで行きたいものです。この讃美歌が最高のマイナスの状況の中にあって、最高のプラスの出来事として作られたように、御子イエス・キリストを信じる人生は、すべてのマイナスの出来事が、最高のプラスに変えられるのです。クリスマスのメッセージとは、大逆転のメッセージなのです。



船に腰をおろすイエス様

2010年11月21日

Posted by パスター菅野 at 20:08 Comments( 0 ) TrackBack( 0 ) 聖書メッセージ
今日の題:『船に腰をおろすイエス様』
聖書箇所:マタイの福音書13章1節~2節

イエス様は、ガリラヤ湖のほとりで説教をはじめました。しかし、それは、通常の説教とはアベコベでした。

イエス様が座り、群衆は立っていました。通常は、講師が立って、聴衆は座って聞きます。

ここで大切なことは、イエス様が座られたことに意味があります。

王様は王座に座られます。イエス様は、まさに御国の王様として座して語られたのです。

王の言葉には絶対的な権威があります。

昨日までのいやしの集会で、講師が一人の人の白いシャツを例に取ってこういう話をしました。「このシャツは、誰が見ても白だけど、神様が『赤』といえば赤になる。」

それだけ神様の言葉には絶対的な権威があり、創造的な力があります。

今日、聖書の言葉をそのような力ある言葉として聴き、受け止めたいものです。ここで大切なものは信仰です。

イエス様は、不信仰の人の多い場所では、あまり奇跡は行われませんでした。しかし、信仰のある人々には、「あなたの信じた通りあなたになれ!」といわれ、その通りにして下さいました。

信仰で大切なことは、神様がいわれたことを額面通り受け止め、祈り、行動することですね。

私たちは、悪魔によってマインドコントロールをされています。聖書こそ真理の中の真理です。この自由を与える真理を真理とし、絶対的な指針として歩んで参りましょう。

祝福がありますように。


流しそうめんと譲り合い

2010年09月20日

Posted by パスター菅野 at 12:51 Comments( 1 ) TrackBack( 0 ) 牧師のコラム
■「流しそうめん」2631m、世界新に歓声
(読売新聞 - 09月20日 11:28)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1348041&media_id=20

この夏私は、はじめて流しそうめんを食べました。軽井沢でたくさんの人たちと炎天下にはしゃぎました。

緩やかな流しそうめんだったので、川上にいると100発80中くらいでそうめんを取ることができます。

しかし、取りすぎると嫌われるし、さりとて、譲り過ぎるとなかなかお腹一杯にならないので、なんとも言えないジレンマを感じました。

その辺の微妙なバランスが人間関係のいい勉強になりました。

これは、団体のキャンプでの一こまでしたが、全く知らない人たちと流しそうめんをしたら、これがまた違ったことでしょうね。

最近、譲り合い精神を忘れた大人が多くいることを感じます。

人が通る通路を確保するために、距離を開けて買い物かごを持ってレジに並んでいると、それを知らずにスッと入ってくる人がいます。しかし途中で気づきますが、気づかない顔でそのまま割り込んで先に買い物を済ます人がいます。

スキー場のリフト待で、故意に割り込む人も多く見かけますし、車の合流の割り込みもそうですし、譲り合いを忘れる人が多くいることを感じます。

「自分さえ良ければ他の人はどうでもいい」。もしこんな人がこの国に満ちていたらとても寂しいだろーなーと感じます。

他人の利益だけを考えるというのはハードルがあまりにも高すぎますが、自分の利益と同時に他人の利益も考えるというバランス感覚があったら、日本はきっと変わっていくような気がします。

今年私は39歳になりましたが、私が子どもの頃には、今より遥かにそんなバランス感覚があったような気がします。

世の中どんどん便利になってりますし、色々な技術の発展がありますが、それに反して、人の心は他の人に無関心になり、温かみのない空気が蔓延しているように感じます。

そんなことも、毎年3万人以上の自殺者が出ていることにも繋がっているのではないかと感じます。これは、一日平均90名が死んでいるということです。

幸せで死ぬ人はまずいないと思います。自殺をするというのは、よっぽどの理由があるはずです。

私たちの国を幸せにするのは、政治・経済・教育等も重要だと思いますが、私たち一人一人のバランス感覚、思いやりからはじまって行くのではないかと思います。

私が車の免許を取ったばかりの頃、割り込みされて気分を害したことがありました。しかし、次の瞬間、宅急便のお兄さんが笑顔で満ちを譲ってくれました。その時、今までの気分の悪さはどこかに吹き飛ばされ、自然と笑顔がこぼれました。そして、私も譲り合いを実践してみました。そうしたら、譲った車の運転手の笑顔を見て、私の心はとてもうれしくなりました。私から譲ってもらったその人は、もしかしたら、また他の誰かに道を譲ったかも知れません。そういうことは小さなことのように思えますが、それがやがて大きな川の流れのようになって行くのではないかと感じます。



試練はベルトのようなもの

2010年09月18日

Posted by パスター菅野 at 14:37 Comments( 0 ) TrackBack( 0 ) 牧師のコラム
私に取っての人生とは、試練の連続でした。神を知らない時に会う試練は、何とか回避したり、お酒などでごまかすしかありませんでした。そして、「何で俺ばっかりこんな苦しい目に会わなければならないのか。」とつぶやいたものです。

しかし、神を信じた後の試練は、例えば、神をズボンと譬えるとするならば、そのズボンと私をベルトが固定してくれるように、試練とは、神と私を結ぶベルトのようなものになりました。それは、もしベルトがなければ、ゆるゆるのズボンは簡単に脱げてしまうように、人生が平穏無事であり、すべて順風満帆に進むならば、簡単に神を忘れ、神を必要としないだろうと思います。

しかし、私を含めて私たちの人生で試練がないことなんてあり得ないだろうと思います。ある人は、身から出た錆びのゆえに苦しむことがあります。お金や異性や名誉に動かされて不正を行なったことのゆえにその報いを受けることがあります。しかし、人に迷惑をかけないようにと気を使い、正しく誠実に生きていたとしても試練はあり得ます。交通規則を守って安全運転をしていたのに、後ろから追突されて体に障害を負わされた人、貧血で輸血したらエイズに感染してしまった人、田舎で静かに暮らしていたのに、強盗に入られて家族が殺されてしまった人もいます。また、些細な試練であるならば、日常茶飯事だろうと思います。家庭や職場、学校や地域での人間関係や、経済的な問題もあるでしょう。

今日お話ししたいのは、どんな種類の試練であったとしても、試練とは、神様と私たちを結ぶベルトのようなものだと思います。自分の不甲斐なさのゆえの苦しみであったとしても、神は赦しの神ですから、悔い改めをしたら消して外れないベルトで神とあなたは結ばれます。また、予期せぬ大きな試練も、「神がいるのになぜ?」と疑問が湧いて来るかも知れませんが、祈るならば、すぐに神とあなたはベルト結ばれます。小さな日常にある試練も、神とあなたを結ぶベルトなのです。

そう考えて行きますと、試練は悪いもので、忌み嫌うというのが普通の考えですが、もし神抜きに考えたならば、マイナスのほか何もありません。しかし、神を信じる人の会う試練は感謝に変ります。作家の三浦綾子さんは、病を背負いながら夫婦で二人三脚で歩んで来ました。そして、「病は私に取って宝である。」と語りました。星野富弘さんは、神様がもう一度生まれ変わらせて下さって、健康な体を下さるとしても、「私はお断り致します。今のままで十分に幸せです。」と語りました。

試練はあなたを不幸にし、神とあなたを引き裂くものではありません。試練に合って初めて自分の弱さを知り、神が必要であるとわかるので、神に信頼し、神を求めるようになります。そうしたら、神はあなたをご自分とベルトで固く結んでくださり、助けて下さいます。神はあなたを愛しています。

聖書には、『見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。』と書かれています。神は、試練という名のベルトで今日も私たちをご自身と結びつけて下さり、一緒に歩んで下さいます。よい一日でありますように。



赦しは癒しをもたらす

2010年07月11日

Posted by パスター菅野 at 21:04 Comments( 0 ) TrackBack( 0 ) 牧師のコラム
人を赦さないで裁く心は、自分を苦しめます。しかし、赦すことで自由になります。

赦しとは、ただ一回の事ではなく、現在進行形であり、終わりのないプロセスです。ですから、何度も途中で赦せなくなって裁きたくなることが起こりえます。

ある男性が、休暇を取ってハワイに旅行しました。朝早く、きれいな道をジョギングしていますと、道端にビールの空き缶が何本か捨ててありました。その瞬間、この男性は怒りが込み上げて来たそうです。そして、「こんなに美しい場所に空き缶を捨てるとは何事だ!何て無神経な奴だろう。」と考えているうちにますます怒りが込み上げて来ました。

「空き缶を捨てて、天国のように美しい場所をゴミ捨て場にするなんて、とんでもない大ばか者だ!」と考えながら、その空き缶の脇を通り過ぎて行きました。そして、ホテルに戻ろうとする頃には、空き缶を捨てた奴に対する怒りで心が一杯になっていました。

そんな時、心の中で「待ちなさい。そんな風にして空き缶を捨てた人の非を裁くよりも、戻って拾ったらどう?」という内なる声が聞こえたそうです。それは、空き缶ごときで一日中人を裁きながらムカムカ過ごすよりも、自分で出来る解決をしたらよいのではないかということです。

そこで自問自答しました。空き缶を拾いに戻れば数分かかり、友人との待ち合わせの時間に遅れてしまうかも知れない。そこまでして空き缶を片付ける価値があるだろうか? しかし、その場所に戻って空き缶を拾いました。その瞬間、心の中のムカムカが消えて、安らぎと喜びに満ちた素晴らしい気持になりました。

そして、ホテルへの帰り道、若い頃の記憶がドッとよみがえって来て、いつの頃だったか、車の窓からごみをポイ捨てしたこと等を思い出し、自分自身もその空き缶を捨てた人と同じように、無神経なことを行なったことに気付きました。そして、空き缶を捨てた人を裁いていた心の一部は、自分自身への罪責感の投影であったことがわかりました。

空き缶を拾ってゴミ箱に捨てる行為は、天国のように美しい島を大切にする以上に、自分を過去から解き放ち、自分を裁く気持から自由になることを学んだと言います。

それは、人をいつまでも裁いてイライラしているよりも、戻って空き缶を拾って捨てたらいいことですし、裁きの思いとは、自分自身の裁きの思いですから、空き缶を捨てた人を赦すプロセスを通して、自分自身が過去の行動について引きずっている感情から自由になれるのです。

赦しとは、赦せない相手の謝罪を受け入れることで、赦す気がなくても、建前上「わかりました」と言うものであると考える人は多いと思います。また、赦さないとは、自分を傷つけた相手から自分を守るために、恨み続け、憎み続けるという場合も多くあるでしょう。

しかし赦しは、赦さないという地獄の苦しみから自分を救い出し、自由にすることです。赦すことが難しい人は、その憎しみや恐れ、怒りという感情によって、体は極度の緊張状態になり、血液循環を悪くし、免疫力が下がり、心臓や脳やあらゆる器官にストレスを与えます。そこで、お酒や一時の快楽に身を委ねて、赦さない心や裁く心から来る苦痛を和らげようとします。しかし、これは悪循環であり、健康上においても、精神的にもますます深刻な問題になって行きます。

今日私たちが、赦しを決断するならば、自らに癒しをもたらせることが出来ます。お酒等も必要なくなりますし、体を健康に向かわせます。実際、人を赦さない心が癌の原因になっているという実際のデータも出ているくらいです。赦しは癒しをもたらします。赦しを決断し、赦しに向かって行きましょう。これは、自分自身を癒すことであり、自分自身を幸せにします。祝福を祈ります。God bless you!


自分を愛するように

2010年05月10日

Posted by パスター菅野 at 15:36 Comments( 0 ) TrackBack( 0 ) 牧師のコラム
聖書は、「自分を除外して愛しなさい」とか、「自分以上に人を愛しなさい」とは言っていません。「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい。」です。

ここで自己愛について、人は二面性を持っています。

まずは、想像以上に、誰でも自分に対しては寛容です。自分の失敗や自分の不純さに対していつまでも責め続ける人はあまり聞きません。しかし、それが他の人であったとしたら俄然責め続けることがあります。どうぞ、自分自身に対して寛容であるように、他者に対して寛容な人にさせてもらいたいですね。

しかし、反面、自分を真の意味で愛しているか?と言えば、多くの人がそうではないと思います。劣等感や低いセルフイメージ、低い自尊心しか持っていません。人は、真に自分を愛せなければ幸せになることはできません。

そして、人に幸せにしてもらおうとします。でも、あなたを幸せにしてくれる人はまずいないでしょう。いても条件付か、一時的なものです。

あなたの幸せは、あなた自身で責任を持ちましょう。すなわち、イエス・キリストが私たちを十字架で愛してくださっているように、自分自身を大切にし、愛し、尊重し、信じることです。

その自分への愛がとても大切です。

類は友を呼びます。あなたが自尊心が低く、劣等感や低いセルフイメージを持っているならば、そういう人をいつの間にか引き寄せてしまいます。しかし、あなたが自分をこよなく愛しているならば、そのような人が引き寄せられてきて、幸せは相乗効果になります。

どうぞ、自分を愛するように、とありますように、自分を愛し、その同じ愛で他者を愛して参りましょう。そこに絶対的な幸せの鍵があるのです。

祝福をお祈りします。


お金は血液のようなもの

2009年08月15日

Posted by パスター菅野 at 21:49 Comments( 0 ) TrackBack( 0 )
多くの人が、一番大切な物の一つに「お金」と思っているのではないでしょうか? しかし、同時に、「お金」を稼ぐためだけに生きているとしたら、使えばなくなってしまいますし、それは辛いものだと思います。

バイブルには、「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと心配するな」と語ります。それは、「衣食住を心配するな」ということ。もっと言えば、「お金のためだけに生きるのではなく、もっと高い使命のために生きよ」、と言うことです。

お金よりも価値のある目標を持つことが大切です。あなたは、衣食住やお金を稼ぐこと以上の夢や目標を持っていますか? そのためならば命をかけても惜しくない、と思えるような燃える使命感を持っていますか?

ところで、衆議院総選挙の日が近づいています。今月18日公示日、30日が投開票日です。前職の方や新人の方も、候補者は真夏の選挙運動に走り回っています。例年より熱くないのが救いですが、夏の選挙戦は大変なものだと思います。

真の政治家は、お金や権力よりも、燃えるような政策を持っています。全ての政治家がそうであってほしいですが、現実にはそうではありません。数人の国会議員の知り合いがいますが、国会議員の本音は、票とお金にしか興味がないのが実態だと言います。立法府としての本業をコツコツやるよりも、生き残ることに戦々恐々としていつも票とお金のことで頭が一杯だとしたら、寂しいものです。

世の中、「お金のために生きています」とはっきり言う人は少ないと思います。それは、卑しいことのように感じるからかも知れません。その理由は、お金以上の世界があるし、あって欲しいと願っているからではないでしょうか?

にもかかわらず「お金」は私たちが生きて行くためにとても重要なものです。しかも、なくてはならないものです。

そこで考えました。もし、お金を身体に例えるとしたら何だろう? 私の答えは、お金は社会と地球の血液のようなものだと思います。

血液は、身体全身にくまなく張り巡らされた血管を流れて、身体全体に栄養分を送ります。そうすることで、身体が身体として機能するようになります。ですから、血液を全身に送る心臓が止まってしまったら人は死んでしまいます。

話は変わりますが、世の中は不景気ですが、マッサージの業界はそれなりに繁盛しているそうです。疲れて肩がこっている人が多いからでしょう。

肩こりとは、心臓が血液を全身に送っているのに、血管が詰まってしまって血液がスムーズに流れていない状態です。こりをほぐしてあげることで血液がスムーズに流れるようになります。

ある毛髪業界の関係者は、頭の薄毛の原因の一つは肩や首のこりだと言いました。心臓から送られた血液が、肩や首で詰まってしまって頭の方に少ししか血液が流れないので、新しい髪の毛を作るのが追いつかなくなり、すぐに抜けてしまう細い髪の毛しか生えないのだそうです。

肩のこりは、他にも色々健康を害するような症状が起きてしまいます。♪かあさんおかたをたたきましょう♪という歌がありますが、肩をもんだりたたいたりして、血流を良くして上げることが大切ですね。

肩こりで血管が詰まってしまうだけならまだいいですが、血液を社会と地球のお金に例えて考えたら深刻です。ある国々の一部の人たちのところにはたくさんのお金が流れますが、そこでお金が止まってしまっています。そして、他のところにはお金は行き届いていません。

そのことで、地球に住む約45億人の人の冷蔵庫には食料は無く、雨露をしのげるような家がありません。また、約30億人が栄養失調の状態にあり、さらに、約6000万人の人が餓死の状態だそうです。

しかし、世界中の60%ものの財産を極々一部の人たちが所有しています。

仮に、全ての財産を60億の人に均等に配分し、世界の全ての食料を60億人が必要な分だけ配分したとしたら、全ての人の必要が満たされるそうです。

世界的に大不況だと言われますが、お金はあるところには有り余っています。

血液は全身に流れてこそ健康になるように、お金は社会と地球をくまなく回るようにしないといけません。

ビル・ゲイツ氏や大富豪の中にはお金を社会と貧しい国々のために寄付する人が増えています。これは大変すばらしいことです。

しかし、人任せにしていてはいけません。

私たちは、お金を得るために汗水を流し、苦労をしていますから、それを自分や家族以外の誰かに流そうという気持ちにはならないと思います。

しかし、お金が血液であるとしたら、何か小さなことでもいいでしょう、困った人を助けるとか、NGOを通して飢餓の人たちを助けるとか、また、たくさん稼いで税金をたくさん納めたりすることも大切です。

税金を納めることに対して積極的になれないのは、国民の財布を握っている国会議員たちがちゃんとお金をうまく使ってくれていない、という意識があるからかも知れません。だから、官僚中心の自民党政治に終止符を打ちたい、というのが世論の多数かも知れません。そのためには、ぜひみんなで選挙に行きましょう。

できるところから社会と地球の血流を良くして行きましょう。

私たち人類と地球は、一人の身体のようなものと言えると思います。身体に多様性があるように、私たち人類には多様性があります。肌の色の違い、人種や民族の違い、価値観の違い、男女の違い、私たちにあるのは違いだけです。みんな大切、みんなすばらしいのです。

人種差別や戦争がバカらしいことは言うまでもありません。みんな仲良くし、みんなで助け合って行かなくてはいけません。そんな一歩を、私たちからはじめて行けたらすばらしいと思います。千里の道も一歩から、私たちの小さな決断と小さな一歩が世界を変えていくのではないでしょうか?

素敵な週末をお過ごしください。


「小さな親切」

2009年07月16日

Posted by パスター菅野 at 00:00 Comments( 0 ) TrackBack( 0 )
マザー・テレサという一人のクリスチャンは、ある時「私たちはこの世では大きいことはできません。小さなことを大きな愛をもってするだけです」と言いました。

私たちは、大きなことをしようと雄大な計画を立てたり、夢を描くことがあると思いますが、そればかりに気を取られていますと、たった今、小さなことをするチャンスが失われてしまうことがあります。

ある一人の知り合いは、「私はもっと色々なことをして、人の役に立ちたい。しかし、残念だけど今は何もできない。いつか自分が成功して、お金があり、与えるものがたくさんあるようになったら是非したい。」そして繰り返し、「今の自分には何もできない」と話していました。

しかしその間に、多くの助けを必要としている人がいます。ひとことの優しい言葉をかけられたい寂しい人たちに、優しく声をかけ、目が不自由で、恐る恐る歩いている人の手を握ってあげたり、道にごみが無造作に捨ててあるのを、拾ってごみ箱に捨てたり、また、家族の中に、あなたの助けを必要としている人がいるのではないでしょうか?

マザー・テレサは、世界を変えることが出来なくても、自分の身の回りの人に手をさし伸ばし、少し暮らしやすくしたり、その町を少し明るくすることを実践していました。それは小さな親切の積み重ねでしたが、結果としては、世界に影響を与えました。しかし、これは結果に過ぎません。

ある偉大な伝道者が、若き日に世界を変えるという夢を描いていました。しかし、年が経つにつれて、「それは難しい。せめて自分の国だけでも。」と思うようになり、今度は、「せめて、自分の住んでる地域だけでも。」と思うようになり、もう少し年を重ねて、「せめて、自分の家族だけでも。」と思いましたが、晩年には、それも難しく、「せめて、自分だけ変えることができたら。」と思うようになりました。しかし、自分が変わったら、家族が変わり、家族が変わったら、地域が変わり、それがやがて国を変え、国々に影響を与えるのだと気づきました。そして、「このことにもっと早く気づいていればなー。」と深く溜息をついたそうです。もちろん、人生の晩年であっても遅すぎることはありません。

大切なのは、自分を変えることではないでしょうか? 今できる小さな親切を無価値なものと思ったり、損得勘定で計算したり、めんどくさがったり、正当な言い訳を考え出して何もしていなかった自分を変えて、小さなことをする。しかし、それに、大きな愛を込めて。しかし、そのことを喜ぶ人がいるし、一生忘れない人もいるかも知れません。少しだけかも知れませんが、その場所を明るくできるかも知れません。あるいは、世界に影響を及ぼすことができるかも知れません。どうぞ、小さな親切をはじめてみて下さい。